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「菊慈童」の舞台展開

​ここでは「菊慈童」を4つの場面に分け紹介します。

写真 平成20年 研究会 シテ武田尚浩

​撮影 前島吉裕

1、臣下(ワキ)の登場
 古代中国、魏の文帝に仕える臣下が登場し、酈縣山(れっけんざん)の麓から霊薬が湧き出ているとの噂を聞いた皇帝がその真偽を確かめよと命を下し、これから向かう旨を語る。

2、慈童の登場
 山中には庵より、邯鄲の枕は百年の栄華の夢を見ると言うが、自分は枕を見ることで罪を思い出し、夢を見ることが出来ず、一人寂しくくらしていると独り言が聞こえる。

3、臣下との問答
 この山中には狼や狐の住家で人がいるとは思えないと不信に思いつつ、庵の中にいる慈童に声をかける。すると慈童は自分は周の穆王に仕えていたと答える。すると臣下は周は700年前の王朝で今その人が生きているとは到底思えないと言う。慈童は自分は穆王の枕を跨いだ罪により流罪となったが、皇帝の慈悲によってありがたい観音経の二句の経文を書き添えた枕を賜ったと答え枕を見せる。

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4、舞を舞う
 そこにはまさしく観音経の経文があり、この経文を菊の葉に写してその葉から滴る雫を飲むことで不老不死の身となったと言って喜びの舞を舞います。
観音経を称えつつ、菊の酒を臣下に勧め、菊に戯れて舞を舞い、皇帝の御代を寿いで慈童は庵へと帰って行く。

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●ひとこと解説

 この曲は観音経の功徳とお酒の功徳が合わさった曲になっています。
観音経の二句の偈とは「具一切功徳慈眼現衆生 福聚海無量是故我頂礼」という経文で、観世音菩薩は一切の功徳を備えており、常に慈悲の眼で衆生を見ておられる、そして菩薩は海の如くはかり難い福徳の集まりであるから常に頂礼しなさいとの意味です。つまりこの経文を心から信じた結果、観音菩薩の功徳によって慈童は不老不死の身となったのです。
 そもそも菊とお酒の繋がりは古く、三世紀ごろの中国ではすでに菊酒が飲まれていたようです。菊酒は二通りの作り方があり、一つは菊を浸した水でお酒を造る製法と、梅酒の梅の代わりに焼酎に菊を漬けて作る方法があるそうです。また、魏の皇帝曹丕は幼い頃から虚弱体質でありましたが、菊酒を朝晩欠かさず飲んだところ忽ちに元気な体となったと言われ、この頃から既に菊酒には滋養強壮に効果があると考えられていました。
またこの菊酒の文化が日本に伝わり平安時代には重陽の節句で、菊の花びらを浮かべたお酒を飲む以外に「菊の着綿」という儀式も行われていました。節句の前夜に菊の上に綿を乗せ、次の日の朝に朝露の浸み込んだ綿で身体を拭くことによって邪気を払い、健康な体となると考えられていました。

 観世流以外では「菊慈童」の事を「枕慈童」と呼びますが、観世流には「菊慈童」とは別に「枕慈童」という曲があり、「菊慈童」から更に100年経った後の漢の時代のお話となっています。

また、写真は「菊慈童」の遊舞之楽の小書きが付いたものになります。この小書きが付くと楽の笛の音が変わり、前半部分が菊を持って舞い、途中で橋掛かりに行く型になります。

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