「心より心に伝ふる花」を目指して
「杜若」の舞台展開
ここでは「杜若」を4つの場面に分け紹介します。
写真 昭和63年 研究会 シテ武田尚浩
撮影 前島吉裕
1、旅僧の登場
名乗り笛に合わせて旅僧(ワキ)が登場し、都から来た諸国一見の僧であると名乗り、美濃尾張を通り過ぎ、三河の国八橋(愛知県知立市)に着く。八橋の畔に美しい杜若が咲いているのを見つけ花を愛でる。
2、若い女の登場
そこへ若い女(シテ)が現れ、僧に声をかける。そして女は僧にここは『伊勢物語』にも詠まれた杜若の名所であると教える。
3、女、自分の庵へ案内する。
女は自分の庵へ僧を案内し、一度奥へといなくなる。再び大変見事な冠・唐衣を纏って僧の前に現れる。女は僧に自らは杜若の精であると明かし、この冠・唐衣は在原業平・高子の后の形見だと教える。
4、『伊勢物語』を語り舞う。
在原業平は歌舞の菩薩の化身であり、彼が杜若を題材に詠んだ御蔭で非情の物の自分も成仏できたことを喜ぶ。そして、『伊勢物語』にある業平の生涯を謡い、舞い、成仏できることを喜び、消え失せる。
●ひとこと解説
伊勢物語の中で在原業平が詠んだ
「唐衣 着つつ慣れにし つましあらば 遥々きぬる 旅をしぞ思ふ」という歌を中心に業平の歌を引きながら幻想的な舞を舞う部分が見どころ。しっかりとしたあらすじがなく、上演時間の約1時間半をかけて草木国土悉皆成仏の世界を舞台上に表し、深い夢の中に入り込むような没入感はまさに能の代名詞ともいえる曲である。
謡曲『杜若』は『伊勢物語』に依拠してつくられた作品であり、通常であれば業平や高子などの『伊勢物語』に関連する人物がシテとして登場するところであるのに、シテは杜若の精である。ここには能楽化される前に形態の民俗芸能があったと考えられる。中世の芸能はその多くが寺社仏閣で行われていたために美を表現することだけが目的ではなく、呪術的な役割を担っていた。例えば『杜若』と同様に植物をシテとする謡曲『高砂』は、その原子形態は鎌倉時代に行われていた松の枝を持ち千秋万歳と唱えながら観客に松の精気を与え、不老長寿・健康繁栄を願う芸能であったと言われる。杜若や菖蒲はその葉の形が剣の形に似ていることから悪魔を払う力があると考えられ、花を咲かせる五月の端午の節句には軒に菖蒲をさし、魔を払う習慣があり、枕草子や徒然草にもその記述がある。また、五月は農耕社会にとって田植えをする重要な時期であり、田の神に仕える女性たちが家に籠り、外部からの邪が入ってこないように菖蒲を軒にふく。男性も五月は長雨が続くため家に籠りきりになり、家に邪が入り込みやすくなる。その為、古今集でも「ほととぎす 鳴くや皐月の あやめ草 あやめも知らぬ 恋もするかな」とあり、「あやめも知らぬ恋」とは物事の判断がつかなくなる程思い乱れる事であり、菖蒲の呪力をもっても払うことのできない乱れた気持ちである。このような時期に季節の花の菖蒲を持ち、人々の邪気を払う芸能があり、これが杜若の原子形態であったと考えられる。この原子芸能を世阿弥が貴族の鑑賞眼に耐えるように『伊勢物語』の杜若と結びつけ、芸術であると同時に呪術的な役割を持った芸能に作り替えたのではないだろうか。
・小書き解説
杜若には「恋之舞」という小書きがあります。
この小書きが付くと初冠に「日陰の糸」と「心葉」という飾りが付き、真ノ太刀を佩きます。また、クセの部分を橋掛かりを八つ橋に見立てて、本舞台ではなく橋掛かりで舞う演出になる場合があります。さらに序之舞の間に橋掛かりへ行き、杜若を眺める型をします。また、キリの部分でイロエというお囃子のみで演奏される部分が入ります。
写真は武田尚浩が平成24年に研究会で勤めたものです。
・クセ~トメ 詞章
地謡「然れども世の中の。一度は栄え。一度は。衰ふる理の真なりける身の行方。住みどころ求むとて。東の方に行く雲の。伊勢や尾張の海面に立つ波を見て。いとどしく過ぎにし方の恋しきに。うらましくも。帰る波かなとうちながめ行けば信濃なる。浅間の嶽なれや。くゆる煙の夕景色
シテ「さてこそ信濃なる。浅間の嶽に立つ煙
地謡「遠近人の。見やは咎めぬと口ずさみ猶遥々の旅衣。三河の国に着きしかば。ここぞ名にある八橋の。沢辺に匂ふ杜若。花紫のゆかりなれば。妻しあるやと思ひぞ出づる都人。然るにこの物語。その品多き事ながら。とりわきこの八橋や。三河の水の底ひなく。契りし人々の数々に。名をかへ品をかへて。人待つ女物病み玉簾の。光も。乱れて飛ぶ蛍の。雲の上まで住ぬべくは。秋風吹くと。仮に現れ衆生済度のわれぞとは知るや否や世の人の
シテ「暗きに行かぬ有明の
地謡「光普き月やあらぬ。春や昔の春ならぬわが身一つは。もとの身にして。本覚真如の身をわけ陰陽の神といはれしも。唯業平の事ぞかし。かやうに申す物語疑はせ給ふな旅人遥々来ぬる唐衣。着つつや舞をかなづらん
シテ「花前に蝶舞ふ。粉々たる雪
地謡「柳上に鶯飛ぶ。片々たる金
シテ「植ゑ置きし。昔の宿の。杜若
地謡「色ばかりこそ昔なりけれ。色ばかりこそ昔なりけれ色ばかりこそ
シテ「昔男の名をとめて。花橘の。匂ひうつる。菖蒲の鬘の
地謡「色はいづれ。似たりや似たり。杜若花菖蒲、梢に鳴くは
シテ「蝉の唐衣の
地謡「袖白妙の卯の花の雪の。夜も白々と。明くる東雲(しののめ)の浅紫の。杜若の。花も悟りの。心開けて。すはや今こそ草木国土。すはや今こそ、草木国土。悉皆(しっかい)成仏の御法を得てこそ。失せにけれ