「心より心に伝ふる花」を目指して
「兼平」の舞台展開
ここでは「兼平」を6つの場面に分け紹介します。
写真 平成27年 朋之会 シテ武田尚浩
撮影 前島吉裕
1、旅僧(ワキ)の登場
木曽出身の僧侶(ワキ)が登場し、木曽義仲の跡を弔うために最期の地である近江の国粟津の原を目指す旨を語り、琵琶湖のほとり矢橋(やばせ)の浦に到着します。
2、老人(前シテ)の登場
そこに老人(前シテ)が柴を積んだ舟で登場します。(舟の作りものの前方につけてある柴によって柴舟である事を表します。)僧侶は粟津の原へ渡ろうと、舟に乗りたいと老人に声を掛けると、老人は渡し船ではないからと一度は断りますが、僧侶であるからと舟に乗せてあげることにします。
3、湖畔を眺める
舟に乗って琵琶湖へ出ると、僧は老人に見える景色について尋ね、老人は琵琶湖から見える名所、比叡山や大宮橋殿などを教え、そのうちに粟津の原に着きます。【中入】
4、僧が弔いを始める
僧侶が舟を降りると、老人の姿が消え、僧が不思議に思っていると、里人(アイ狂言)が現れ、自分が舟の所有者なのに舟が動いていると疑問に思います。僧侶は、老人が幽霊であると思い、粟津の汀で跡を弔うことにします。
5、兼平の霊(後シテ)の登場
すると、甲冑を来た武将(後シテ)の幽霊が現れます。武将は今井四郎兼平であると名乗り、先ほどの老人は自分であったと明かし、跡を弔ってほしいと頼みます。
6、義仲と兼平の最期を語る
兼平は主君・木曽義仲の粟津が原での最期の様子を語り、舞い、自らよりもまず主君の義仲の菩提を弔って欲しいと頼みます。そして、義仲が打ち取られた事を知った兼平が大勢の敵に向かって名乗りを上げ、太刀で喉を衝き通し死んだ様子を舞い、消えて行きます。
●ひとこと解説
能には源平の公達・武将を主人公とする“修羅物”とよばれる作品群があります。仏教では戦いにより人を殺した人間は、勝敗に関係なく源氏でも平家でも修羅道という地獄に落ちなければならないという考え方があり、そこから修羅物という名称がついています。
今井四郎兼平は正式には中原兼平と言い、信濃国今井を所領としたために今井兼平と名乗りました。兼平は木曽義仲の乳母の子供で、幼い時から義仲と一緒に育ち、挙兵以来ずっと側に仕え、木曽四天王の筆頭として活躍しました。「平家物語」では、最期を悟った義仲が兼平と供に討ち死にを望むと、兼平は義仲程の武将が敵に討ち取られては後代までの恥であると義仲を諌め、義仲に自刃を勧め、兼平はその時間を稼ぐために大群の敵へと突撃し、義仲の討ち死にを聞き壮絶な自害を果たします。「兼平」という曲は修羅物の中でも上演が稀な演目ですが、主従二人の深い絆が垣間見える情熱的な演目です。
前シテは全て舟の中での所作なので大きな動きはなく詞で名所を語り、あとは地謡に任せて琵琶湖の景色を想像していただきたいと思います。
後シテもクリ・サシ・クセとこれも地謡いの聞かせどころが続きます。特にクセの後半は兼平の義仲への忠君さがうかがえ、盛り上がる謡いとなります。また、クセ後半よりロンギに形(所作)があり、見せ所となります。
また本曲は旧名を柴舟とも言い、舟が重要な役割を占めます。前場では老人が僧を舟で矢橋の岸から粟津の岸へと運び、後場では今度は僧が兼平の霊をこちらの岸からあちらの岸(彼岸)へと御経の舟によって運びます。