「心より心に伝ふる花」を目指して
「忠度」の舞台展開
ここでは「忠度」を7つの場面に分け紹介します。
写真 平成12年 研究会 シテ武田尚浩
撮影 前島吉裕
1、旅僧一行(ワキ・ワキツレ)の登場
囃子方、地謡方が着座すると次第によって旅僧一行が登場する。彼はもともと藤原俊成の家来であったが、俊成亡き後、出家して回国修行を志し、西国行脚をする旨を語り、須磨の浦へと到着し、桜を眺めることにする。
2、老人(シテ)の登場
一声にて登場した老人は汐を汲み山で薪を採る、せわしなく貧しい生活を嘆く。そして、須磨の浦は在原行平の和歌「わくらわに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶと答えよ」と詠んだように、寂しい事で有名な場所であると語る。この山陰に墓標の一本の若木の桜があり、山に行くたびに道すがら花を手向けているので、今日も花を手向けようと言って、木陰に礼拝する。
3、老人と旅僧の問答
すると旅僧は老人に声をかける。老人はこの浦の海士で汐を焼く薪が無くなったので、山に薪を採りに来た旨を語る。会話するうちに日が暮れてきたので、僧は老人に一夜の宿を願う。老人はこの桜こそ今宵の宿であると答え、「行き暮れて この下陰を 宿とせば 花や今宵の 主ならまし」と詠んだ方がここに葬られていると語り、僧に回向を勧める。
4、老人は花の陰に消える(中入り)
僧はその歌は忠度の辞世の句であると気づき、忠度(ただ法)の声よって成仏されよと弔いをする。すると老人は弔いを喜び、僧に弔ってもらうために現れたこの花の主であると明かし、夢の告げを待ち給えと消えていった。(中入り)
5、所の者(間狂言)の登場
所の者が現れて、僧に忠度について語り、僧は読経を始める。
6、忠度の幽霊(後シテ)の登場
一声によって登場した忠度の幽霊は千載集に自分の歌が載せられたが、勅勘の身のため「読み人知らず」になったしまったことを嘆き、僧に定家に自分の名を載せてほしいと頼む。
7、忠度は戦語りを始める
時は寿永二年の秋の頃であった。平家一門が都落ちをする途中、狐川より都の俊成卿のお屋敷に引き返し、千載集に和歌を入れてほしいと頼んだ。そして、西国へ赴き、須磨の浦まで攻め上ることができたが、そこで一の谷の合戦になってしまった。戦に敗れ、一門はことごとく海へ逃げるので、私も船に乗ろうと思ったところ、岡部六彌太忠純が6・7騎ばかりでやってきた。六彌太と組合いになり、二人は馬から落ち、六彌太を押さえて首を切ろうとすると、六彌太の郎等が忠度の右の手を切り落とした。もはやこれまでと思った忠度は西を向き、「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」とお経を称え、六彌太が首を打ち落とした。 六彌太は亡骸をよくよく見てみると、まだ年若く錦の直垂を着ており、平家の公達であろうと思っ た。そして、箙には短冊のついた矢が入れられていた。そこには「旅宿の花」と題があり、「行き暮れて この下陰を 宿とせば 花や今宵の 主ならまし 忠度」と書かれていた。これは疑いなく薩摩の守の平忠度であると同情した。語り終えた忠度は僧に弔いを頼み、花の陰に消えっていった。
●ひとこと解説
忠度は修羅物にしては珍しくカケリがなく、修羅道に落ちた苦しみというよりは、和歌の妄執によって現れます。忠度の主題となる和歌は「行き暮れて 木の下陰を 宿とせば 花や昔の 主ならまし」です。
因みにこの後藤原定家が選者となった「新勅撰和歌集」には忠度の詠んだ和歌が「読み人知らず」ではなく、「薩摩守忠度」として載せられています。
類曲に「俊成忠度」があります。この曲は俊成卿の屋敷に忠度の幽霊が現れて、千載集に載せられなかったことを嘆く話です。こちらも主題の和歌があり、「故郷の花」という題の「さざ波や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな」という千載集に詠み人知らずで載せられた和歌です。