「心より心に伝ふる花」を目指して
「籠太鼓」の舞台展開
ここでは「籠太鼓」を4つの場面に分け紹介します。
写真 令和元年 観世会 シテ武田尚浩
撮影 前島吉裕
1、松浦何某(ワキ)の登場
囃子方、地謡方が着座すると大小前に牢屋の作り物が出される。
松浦何某が登場し、関の清次が人を殺めたので、牢屋に入れたことを語り、従者(狂言)に牢屋の番を申しつけるが、清次に逃げられてしまう。
2、 清次の妻(シテ)の登場
松浦何某は従者に命じて、清次の妻を呼び出し、夫の居場所を詰問する。しかし、妻は答えないので、夫の代わりに牢屋に入れ、従者に鼓を打って番をするように命じる。
真夜中になり、妻が夫を思い狂気したので、従者は松浦何某に報告する。松浦何某は妻に夫の居場所を教えれば助けると言うが妻は「どうして夫を陥れることができようか」と狂乱し、この牢屋こそ夫の形見であると牢屋から出ようとしない。
3、クルイ
松浦何某は妻の様子を見て、夫婦を許すというが、妻はこれを信じない。さらに夫の行方を案じた妻は狂乱し、牢屋についている鼓を打って、夫への思いを舞で表現する。(ここでシテは唐織の右肩を脱ぎ、狂女の態を表します。)
4、夫の居場所を告げる
この様子を見て夫婦の愛に心を打たれた松浦何某は夫婦ともに助けると神に誓い、これを聞いた妻は夫の居場所を告げて、夫の元へ向かい、夫婦は幸せに暮らした。
●ひとことではない解説
籠太鼓は現在では上演が稀な曲ですが、室町時代後期から江戸時代にかけては度々上演された記録が残っており、かなりの人気曲でした。金春禅鳳も籠太鼓については『禅鳳雑談』にて「此能よき能とて、いつもほめ被申候。是はそら物狂いなり。」と語り、お気に入りの能の一つであったと推測されます。
籠太鼓のポイントを三つ程紹介すると、一つ目は物狂い能についてです。籠太鼓の作者は不明で、記録上の初出は寛正七年(一四六六年)の二月二十五日に観世大夫正盛が演じた記録です。ちょうどこの頃は世阿弥が没してから二十年余り経ち、世阿弥が作った能の理念をより改良、深化させようと試行錯誤を繰り返した時代でした。世阿弥は物狂いの能は思い故に狂う「姿」に花があると考えていましたが、世阿弥の曽孫の世代の金春禅鳳は狂う心の源である「思い」が重要であると考え、世阿弥の大切にした「狂う姿の花」に加えてその源泉たる「思い」を重要視しました。この論理から考えると籠太鼓は狂女でありながら、本当の狂女ではないので、「変わり種」として籠太鼓を好んだのではないでしょうか。またシテは禅鳳の言葉にあるように「そら狂い」であり、どの程度狂うのかがポイントになります。冷静な状態のまま十割「そら狂い」なのか、夫の居場所を知っていることを隠す為に狂い始めたが徐々に自己暗示にかかって本当に狂っているのか、その中間あたりなのかなど、様々な場合が考えられます。シテの思う「清次の妻」像がどのような妻なのか、所作や謡の端々に見えるかと思います。
二つ目は「関の清次」の存在です。彼はこの物語の中心人物でありながら、舞台上には登場しません。その為彼について観客はシテやワキ、狂言を通して彼の存在を思い描きます。特にシテの夫を思う気持ちを通して、清次の人物像を想像することが本曲の醍醐味とも言えます。ぜひシテがどのような清次像を描いているのか、所作や謡の端々にその想いがみえるかと思います。よくよくご覧いただき、想像していただければと思います。
三つ目はクルイの部分です。この部分は本曲の最も盛り上がる部分の一つでシテの狂乱の舞が見所です。「鼓の声も時ふりて」からの部分(鼓之段)は時守の数え歌風の仕事歌が狂乱の舞いに仕立てられており、この仕事歌を能に組み込むために「籠太鼓」が作曲されたとも言われています。時の鼓は律令で定められた制度で、宮中にて守辰丁と呼ばれる人が昼夜交代で番を勤めていました。正午に九つ打ち、二時間おきに八つ、七つと数を減らし、午前零時に九に戻ります。舞台上で狂言が九つ鼓を打っているので、時間が真夜中である事がわかります。つまり、夜が更けていくと共に妻の想いが溢れて、午前零時にその想いが頂点となって狂乱します。ぜひこのシテの心を見ていただければと思います。